箱館戦争
榎本武揚ら一部の旧幕府軍は、8月、旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出。奥羽越列藩同盟政府からの再三の援軍要請を無視し、同盟政府の敗色が強まった8月26日、ようやく仙台港に寄港した。榎本は仙台で、同盟軍および大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力、約2500人を収容して兵数を倍増させることに成功すると、10月12日、仙台領・石巻湾から蝦夷地(北海道)へと向かった。北海道の松前藩は、当初、奥羽越列藩同盟側に属していたが、のちに新政府側に寝返っていた。10月26日、榎本は松前藩の箱館五稜郭などの拠点を占領し、北海道を支配していた東北諸藩の敗戦後、12月5日、北海道に地域政権を打ち立てた(榎本政権(通称、蝦夷共和国))。榎本らは北方の防衛開拓を名目として旧幕臣政権による蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。旧幕府軍は松前、江差などを占領するも、要となる開陽丸を座礁沈没させて失い海軍兵力は低下、宮古湾海戦を挑んだものの敗れ、新政府軍の蝦夷地への上陸を許す。5月18日(同6月27日)、土方歳三は戦死。榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結した。
戦後処理
慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、田安亀之助に徳川宗家を相続させ、駿府70万石を下賜することを発表した。
同年(明治元年)12月7日、東北地方(北海道)と越後の諸藩に対する処分が発表された。列藩同盟の盟主である伊達慶邦、準盟主である上杉斉憲をはじめ東北諸藩の藩主は死一等を減じられ、一旦封土没収の上、削・転封された。主な諸藩の処分は次の通りである(カッコ内は旧領石高)。
処分をうけた藩
仙台藩 - 28万石に減封(62万石)。家老6名のうち2名が処刑、さらに2名が切腹させられた。仙台藩の財政は壊滅状態に陥り、仙台藩士の一部は新天地・北海道の開拓を決意し、北海道へと移住した。仙台藩士は現在の伊達市、当別町などを開拓した。
会津藩 - 陸奥斗南藩3万石に転封(23万石)。藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。家老1名が処刑された。この会津藩への過酷な処分は、西郷隆盛と並ぶもう一人の大総督府参謀であった長州藩士林通顕によってなされた。
盛岡藩 - 旧仙台領の白石13万石に転封(20万石)。家老1名が処刑された。
米沢藩 - 14万石に減封(18万石)。
庄内藩 - 12万石に減封(17万石)。新政府の重鎮である西郷隆盛によって寛大な処分がとられた。これは会津藩が長州藩の意向により苛酷な処分を受けた事とは対照的である。
山形藩 - 近江国朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。石高は5万石から変わらず。家臣1名が処刑された。
二本松藩 - 5万石に減封(10万石)
棚倉藩 - 6万石に減封(10万石)
長岡藩 - 2万8千石に減封(7万4千石)
請西藩 - 改易(1万石)、藩重臣は死罪。藩主林忠崇は投獄。のち赦免されるが士族扱いとなる。後年、旧藩士らの手弁当による叙勲運動により、養子が他の旧藩主より一段低い男爵に叙任された。戊辰戦争による除封改易はこの一家のみ。
一関藩 - 2万7000石に減封(3万石)
上山藩 - 2万7000石に減封(3万石)
福島藩 - 三河国重原藩2万8000石へ転封(3万石)
亀田藩 - 1万8000石に減封(2万石)
天童藩 - 1万8000石に減封(2万石)
泉藩 - 1万8000石へ減封(2万石)
湯長谷藩 - 1万4000石へ減封(1万5000石)
下手渡藩 - 旧領である筑後国三池へ転封、三池藩を立藩。石高は1万石から変わらず。
加増をうけた藩
新庄藩 - 8万3200石(6万8200石)
本庄藩 - 3万石へ加増(2万石)
松前藩 - 3万石へ加増(1万石)
矢島藩 - 1万5200石で立藩(8000石)
久保田藩 - 2万石の賞典録が与えられた(20万石)
弘前藩 - 1万石の賞典禄が与えられた(10万石)
守山藩 - 賞典禄1000両があたえられた。
所領安堵となった藩
八戸藩 - 藩主・南部信順が島津氏の血縁ということもあり、沙汰無しとなったと言われる。また、本家盛岡藩の久保田藩に対する戦闘では、遠野南部氏共々尊皇攘夷思想から参加していない。また、陰で久保田藩と通じる文書を交わしていることが明らかになっている。
村松藩 - 家老1名が処刑された。
村上藩 - 家老1名が処刑された。
磐城平藩 - 新政府に7万両を献納し、所領安堵となった。
相馬中村藩 - 新政府に1万両を献納し、所領安堵となった。
三春藩
新発田藩
三根山藩
黒川藩
明治2年(1869年)5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として、仙台藩首席家老但木成行、仙台藩江戸詰め家老坂英力、会津藩家老萱野権兵衛、盛岡藩家老楢山佐渡が、東京で極刑の刎首刑に処された。続いて、仙台藩家老玉虫左太夫、同じく仙台藩家老若生文十郎が、切腹させられた。しかし、但木成行、玉虫左太夫らの師である、仙台藩強硬派の精神的柱石、思想家、大槻盤渓は、死を免れた。
会津藩と庄内藩の処分については、新政府内においても「厳罰論」と「寛典論」に分かれたが対照的な処分となった。 会津藩に対する処分は厳しく「旧領の猪苗代か新天地の斗南どちらか3万石に転封」というもので、会津藩内での議論の末、斗南を選択している。斗南は風雪が厳しく実質的には8000石程度で、移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。
庄内藩に対する処分は、西郷隆盛らによって寛大に行われた。西郷隆盛の庄内藩に対する対応は巧妙であり、これに感激した庄内の人々は、西郷に対する尊敬の念を深めた。前庄内藩主酒井忠篤らは西郷の遺訓『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している。
奥羽越列藩同盟政府から新政府に寝返った久保田藩・弘前藩・三春藩は功を労われ、明治2年(1869年)には一応の賞典禄が与えられた。しかし、いずれも新政府側から他の諸藩と同格とは見なされず恩恵を得られなかった。この仕置きを不満とした者の数は非常に多く、後に旧久保田藩領では反政府運動が、旧三春藩領では自由民権運動が活発化した。
箱館戦争が終結すると、首謀者の榎本武揚・大鳥圭介・松平太郎らは東京辰の口に投獄されたが、黒田清隆らによる助命運動により、明治5年(1872年)1月に赦免された。その後、彼らの多くは乞われて新政府に出仕し、新政府の要職に就いた。
大正6年(1917年)9月8日、盛岡において戊辰戦争殉難者50年祭が開かれた。事実上の祭主としては、盛岡藩家老の家に生まれた政友会総裁原敬が列席し、「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、「賊軍」・「朝敵」の汚名を雪いでいる。
「戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が新政府に勝っていれば仙台(周辺)が日本の首都になった」、という「仙台首都説」がある。 これに直接的な関連は無いが、1990年代前半に地方分権法案が審議され日本の遷都が検討された際に、仙台市も首都候補都市として挙げられていた。
遺恨
戊辰戦争では戦争の様々な事柄や理由において、その原因を遺恨と結びつけて説明される事がある。 京都守護職であった会津藩の京都における勤王・倒幕浪士の捕殺や、庄内藩による薩摩藩邸の焼き討ち[2]。禁門の変による長州藩への「朝敵」指定や長州征討。会津戦争での新政府軍による暴行・略奪などが各藩の「恨み」の理由として挙げられる。 また実際に、長州藩では官軍に立場が転じると旧幕府側の人間を敵意をこめて「朝敵」と呼称した山縣有朋や世良修蔵[3]のような人物が見られ、鹿児島で起きた西南戦争において旧幕府側出身の抜刀隊員達は、賊軍の汚名を晴らすべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫んで斬り込んでいった。 会津藩のあった福島県西部(特に会津若松周辺)では、今なお山口県(長州藩)の人間への強い嫌悪感やわだかまりがある。
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