沿岸部に至ると、もう一度森林の様相が変化する。汽水域に広がるマングローブ林に置き換わるからである。マングローブ林においては、干潮時、満潮時において、海岸線の位置が数km、スマトラ島にいたっては10km以上も変化する。つまり、海岸線の位置が定まっていない。マングローブ林の土壌はマングローブの根が分泌する根酸のため、強い酸性となっている。したがって、焼き畑にも向かず、農業にとっては不毛の地であった。20世紀に至って、養魚産業が確立するまでは、マングローブ林は常に放置されてきた。
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以上から、東南アジア島嶼部においては、河川沿いに狭い農地を形成する、山岳地の沢に不安定な田畑を開く、後述するサゴヤシのような熱帯特有の樹木を育てる以外に、デンプン質摂取を目的とした農業が維持できないことが分かる。
ヒト以前からヒトへ
ニア洞窟入り口から外界を眺め上げたところ猿人、原人、旧人、新人という初期人類から現世人類(新人)への分類に従うと、東南アジア島嶼部における最初の人類は1891年にオランダ人ユージェヌ・デュポワが発見したジャワ原人(ホモ・エレクトス)だと言える。ジャワ原人は東南アジア人の祖先でないばかりか、原生人類の祖先でもない。しかしながら、氷河が発達した更新世(180万年前から1万年前)において、東南アジア島嶼部が人類の生存に適していたことが理解できる。
当時は氷床の発達により海水面が最大150m低下していたため、東南アジア島嶼部は大陸部とつながっており、ボルネオ島にいたるまで大陸が伸びていた。これをスンダランドと呼ぶ。ボルネオ島と東隣のスラウェシの間を南北に走るマカッサル海峡は深く、当時も海峡として存在した。このため動植物の分布が東西で異なり、ウォーレス線として知られる。
旧人(ネアンデルタール人)の分布は地中海世界と中部ヨーロッパに限られており、東南アジアでは相当する人類は見られない。
先史時代
ホアビン文化とドンソン文化
東南アジアの先史時代、つまり旧石器時代から鉄器時代にかけては、大陸部、とくにベトナム北部を中心に進展した。最初期のホアビン文化は紀元前1万年前ごろから、紀元前5000年ごろまで継続した。旧石器時代に属し、土器は見られない。チョッパー、局部磨製石器、スマトラリスなどの打製石器が中心であった。
ホアビン文化の範囲は広く、ベトナム北部から現在のビルマを除くインドシナ、マレー半島全域、スマトラ島北部の一部に至った。ホアビン文化は根菜農耕文化であったことが分かっている。ホアビン文化を引き継いだのが、ベトナム北部にのみ見られるバクソン文化である。
土器はタイ北部において、紀元前4000年前から、直後に彩色土器も発見されている。
青銅器を用いたのは、紀元前1000年から西暦300年ごろまで継続したドンソン文化である。ベトナム北部から現在のビルマを除くインドシナ、マレー半島全域、南西岸を除くスマトラ島全域、ティモール島を含む小スンダ列島全域、スラウェシ島全域、ボルネオ島南岸において、中央部がくびれた円筒形の青銅器(銅鼓)、さらに鉄器が見つかっている。
以上のように、東南アジア島嶼部の先史時代は、マレー半島、大スンダ列島、小スンダ列島を中心とした大陸系の文化の影響を強く受けていたことが分かる。しかしながら、南部を除いたボルネオ島主要部、フィリピンは独自の発展を続けた。
ニア洞窟と遺跡
ブルネイの周辺領域における最も重要な遺跡は現在のブルネイから南西へ約100km離れた現在のマレーシア、サラワク州に位置する鍾乳洞ニア洞窟、ボルネオ北端のマレーシアサバ州のティンカユ遺跡、マダイ洞窟、フィリピン本国からボルネオ島へ直線上に伸びるパラワン島中央部のタボン洞窟である。いわゆる洞窟遺跡、岩陰遺跡が目立つ。
ニア洞窟は、紀元前4万年から西暦700年という長い期間に渡って利用された遺跡であり、古人骨も発見されている。海岸から16kmはなれた石灰岩の丘に位置し、正面の河川から31mもの位置に開口部がある。ボルネオの山岳河川は最大5m以上も増水するため、この位置関係は住居として好ましい。開口部は幅244m、高さ61mもあるため、洞窟というより、大ホールとでも言うべき規模である。
紀元前4万年からは新人の頭骨と小型の剥片石器、チョッパー、骨製の尖頭器が、同3万年からは、骨製の尖頭器が大量に出土した。紀元前1万5000年前に至ると、屈葬・座葬・集骨埋葬などさまざまな形式の埋葬跡が見つかるようになり、同1万3000年から1万年前の層からは摩製石斧が、同6000年から4000年円筒形石斧が見つかった。土器や木棺、方角石斧が見つかるのは紀元前2500年前の時点である。埋葬様式も伸展葬に変化している。
金属器が見つかったのは紀元前250年の青銅器、西暦700年の鉄器である。このとき、同時に中国製のガラス玉と陶磁器も出土している。
ティンカユ遺跡は、紀元前2万8000年ごろ、火山の噴火により出現した堰止湖、ティンカユ湖の湖畔、もしくは湖内の島に形成された遺跡である。1万2000年前までの遺物が見つかる。石器は後述するタボン遺跡と似ているが、タボン遺跡には出土しない両面加工石器やナイフのように加工された石器が見つかっている。その直後、マダイ洞窟遺跡から石器が見つかるようになる。刃部に植物の切断による光沢が残った石器が登場する。いずれも海産の貝、淡水性の貝が主要な食糧であった。
タボン洞窟は炭素14による放射性年代測定によると、3万年前から9000年前に至る遺物が残っている。全期間を通じて出土するのは不定形の剥片石器が中心であり、時代が下るにつれて小型化する傾向にある。大陸部の剥片石器とは異なり、形状は不定形であり、細部の加工が見られるものは10%以下である。動植物体の遺物としては、コウモリの骨が中心であり、大型ほ乳類の骨はほとんど見つからない。さらに海岸から30km離れていることもあり、海産の貝も見当たらない。
以上のように、ボルネオ、フィリピン西部においては、大陸部とは異なる段階で先史時代が形成された。ニア洞窟の青銅器、鉄器は、中国との何らかの交易によるものとされている。
ドンソン文化とラピタ文化
ドンソン文化による、銅鼓も1点だけではあるが、ボルネオ島最北部から発見されている。 ドンソン文化とボルネオの関係は未解明である。銅鼓以外にはっきりドンソン文化の影響が見られるのは「船」である。船といっても乗船するためのものではなく、葬儀に用いる死者の船、そして、青銅器に描かれる記号である。空を飛ぶためなのか、船は鳥と関連付けられており、鳥の頭と共に描かれる。
現代のブルネイの人口のうち4%が先住民族である。最有力の先住民族がダヤク人である。ダヤク人の伝統的な葬儀では鳥の頭と尾羽がついた「船」を棺として用いる。
もう一点未解明なのが新石器文化ラピタ文化とボルネオの関係である。ラピタ文化は台湾、もしくは中国大陸に起源があると考えられている。その後、フィリピンで展開し、紀元前1500年ごろにニューギニア島へ、さらに紀元前850年にはポリネシアのトンガ、サモアにまで伝わっている。ラピタ文化の担い手となる人々は航海術に優れ、ラピタ土器が遺物として重要である。ボルネオ島からもラピタ土器に分類できそうな遺物が見つかってはいるが、未解明である。
稲作の導入
紀元前1万年ごろ、長江中流、下流域で興った稲作は、ドンソン文化のようにマレー半島経由で伝わったのではなく、台湾、フィリピン、小スンダ列島という経路をたどった。東南アジア島嶼部に至ったのは紀元前2000年前後である。
稲作文化は東南アジアの伝統ではあるが、平原に広がる広大な田園という風景が当たり前になったのは18世紀以降である。稲作はまず陸稲という形で始まった。自然条件の節で解説したように、平地はどのようなものであっても、農業に向かない。そこで、焼き畑の一部として稲作が導入された。焼き畑の1年目に雑穀と稲を区別せずに栽培し、2年目に根菜を植え、収穫後放棄するという農法である。
[編集] サゴヤシ栽培
東南アジア諸国は、降水量、降水の分布、土壌、地形などにより佐々木高明によると8つ、高谷好市によると7つの耕作区に分かれる。これはデンプン質源となる作物が、陸稲、水稲、水田、サゴヤシ、雑穀、イモなど、どの農法・作物に依存しているかによった分類である。
ブルネイの位置するボルネオ島の約半分の土地はセレベス島やモルッカ諸島と併せて「サゴ区」に分類されている。これは炭水化物摂取量のうち、サゴヤシ Metroxylon sago の占める割合が数割に達していることを意味する。
サゴヤシは、例えば日本の南部で見られる裸子植物のソテツに外見が類似し、同様に幹からデンプンが採取できるが、被子植物のヤシ科の植物である。植えてから16年、条件の良い場合は10年経過すると開花と結実に備えて、直径60cm、高さ15mの「幹」を形成し、ここにほぼ100%のデンプンを大量に蓄え、このすべてを繁殖につぎ込み、種子を残して枯死する。これを開花前のデンプン量が最大になった時点で伐採し、地域によっても異なるが長さ60cmごとに切断する。幹の「皮」は数cmしかなく、内部は繊維質によって保持されたデンプン質の髄からなる。これを手斧でほぐしながら水で洗い流し、網などを通して繊維質を取り除き、最後に沈殿させる。このようにして1本あたり、水を含んだ重量ではあるが150kgものデンプン質が得られる。
サゴヤシ農法の利点は、作業手順を見れば分かる通り、最も労働力がかからずに大量のデンプンを生産できる農法であるとされていることである。泥炭土壌で栽培でき、栽培によって土壌が劣化することもない。熱帯雨林沿岸部に最も適した作物だと言える。ソテツなどとは異なり、組織に毒性のある物質も含まれていないため執拗に水さらしをせずにすむ。
サゴヤシの問題点は、ほぼ100%のデンプン質しか得られないことであり、米のように良質のアミノ酸組成のタンパク質を含まず、味も淡白であるため、それを補う副食を必要とする。その一方で、デンプン採取に使う水に由来するといわれるがサゴデンプンには鉄分が多く含まれ、これを主食とする住民には鉄欠乏性の貧血が少ないことも報告されている。
東西の文明をつなぐ貿易路の形成
チョーラ朝の版図(1030年ごろ)
沿岸部の河川域を中心とした小規模な港が他の文明世界といつごろから交流しはじめたのか、最初期の記録、西側から見た記録は、西暦60年から70年ごろに記された『エリュトラー海案内記』に見られる。エリュトラー海とは、ギリシャ人が紅海、ペルシャ湾、インド洋を併せた海域を呼ぶ用語である。エリュトラー海案内記には、ローマ人がコショウの産地として非常な関心を抱いていた南インドを中心として描かれている。アレキサンドリア・紅海・ペルシャ湾・インドという航路は紀元前1世紀から利用されていた。インド南部から左に陸地を見て進んで行くと「ガンゲース」(ガンジス川)に至り、さらに進むとクリュセー(マレー半島)と呼ばれる島が、さらに北に進むと、ティーナ(シナ)に到達するとある。従って、ギリシャ側からは、インドと中国を結ぶ航路が認識されていた。
中国側からは、後漢の班固、班昭によって記された前漢について記した『漢書』の「地理志」に中国とインドの貿易について記述がある。貿易品目にはインド、中国のいずれも産出しない「犀」などが見られることから、紀元前には、東南アジア諸国が貿易に参加していたことが分かる。
当時の貿易路は、両端ではローマと漢を結んでいたが両者の直接的な貿易交渉はほとんどなかった。貿易の中心点はインドであり、インドの産物を西のローマと東の漢が輸入し、代わりに金を輸出していた。
インドの影響
貿易が盛んになると、インド人商人自らが船を仕立て、東南アジア島嶼部、特にマレー半島に来航するようになった。インド人は金を求めて、マレー半島側は鉄器と鉄材が必要だった。こうして、港を管理する首長、王の権威が確立されていき、港を中心とした都市国家、港市が成立していった。『梁書』の「海南伝」によると、梁書が記された6世紀にはすでに港市が成立して四百余年とあり、西暦2世紀には港市が開かれていたことが分かる。
さらに貿易関係が強固になると、港市側に居住し、商品だけを送り出すインド人商人も現れた。当時のインドでは、ヴィシュヌ信仰を中心としたヒンドゥー教、仏教が信じられていたため、首長の中にはインドの宗教に従うものもいた。
4世紀から5世紀ごろ、インドでチャンドラグプタ1世が開いたグプタ朝が影響力を拡大して行った。グプタ文化のうち、サンスクリット語、デーヴァナーガリー文字、バラモン教、装飾品や衣服が特に東南アジア島嶼部に強い影響を与えた。現代に至っても漢字文化を持続させたベトナムなどを除き、東南アジア諸国の文字はデーヴァナーガリー文字に由来する。ブルネイの歴史家Al-Sufriは、現代においてもブルネイ人が高位を表す称号、石碑に記す文字にサンスクリット語を由来を意識せずに使うという。例えば、Pengiran Setia NegaraやPengiran Putera Negaraといった称号がサンスクリット語に由来するという。
中印貿易
現代のインド、中国、東南アジアの位置関係 国家の名称や範囲は異なるが、中印貿易における位置関係は当時と同じである。東南アジア諸国の第一の貿易相手国は中国である。中国の王朝との貿易を進めるためにはまず皇帝の権威を承認する朝貢が必要となる。ブルネイの朝貢については971年に当時の宋に対して行った記録が残っている。当時のブルネイの情勢は、南宋代の書物『諸蕃志』に「渤泥国」として記録されている。諸蕃志自体は13世紀の趙の手によるが、趙本人が諸外国を旅したのではなく、前世紀から集まっていた記録を利用している。
諸蕃志による記録
諸蕃志巻上には東南アジア諸国を中心に諸国の情勢が記録されている。倭国(当時の日本)見える。それぞれの国の位置関係、行程に基づいた距離、生活習慣、農業や宗教についてまとめたものだ。巻下は「志物」と題して、主な貿易品目について解説がある。脳子()や乳香、没薬など、植物性の香料に関する記事が大半を占める。
ブルネイの位置については、「渤泥在泉之東南去闍婆四十五日程」とし、ジャワから45日、「去三仏齋四十日程」、シュリービジャヤから40日とある。国の規模については「其國以板為城城中居民萬余人所統十四州」とし、王都の人口が1万人であって、14州を治めていた、つまり、漁村などというものではなく、都市国家として成立していたことが読み取れる。
ブルネイは穏やかな南シナ海に面し、湾内に河口を持つという良港たる条件を満たしていた。
ポルトガル人の登場
植民地化を目指して東南アジアに最初に到達したヨーロッパ人はポルトガル人である。ポルトガルはアフリカ大陸各地に寄港地を作りながら、1498年インドのカリカットに到達、インドより先にさらに貿易路があることを確認すると、香辛料の産地に向かって拠点を延ばしていった。1510年、アルフォンソ・デ・アルブケルケはインドのゴアを占領、アルブケルケは1511年マラッカ王国が支配していた港を占領する。当時の港市都市は拠点としていた港が落ちると、国ごと他の拠点に移動していたため、マラッカ王国も移動する。イスラム商人はマラッカ以外の貿易港を求め、ブルネイに至った。
スペイン人の衝撃とイスラム
フィリピン社会は、バランガイという家族集団の集まったものが単位となって構成されていた。バランガイは台湾など他の地域からフィリピン諸島に移住してきた移民船を単位にした集団だと考えられている。フィリピンにはバランガイよりも上位の社会集団がなく、王や国家などは存在していないかった。特に大きなバランガイを治める首長が存在していただけである。
そこに1521年,太平洋を横断し、東からやって来たスペイン艦隊の長フェルディナンド・マゼランがヴィサヤ諸島(現在のフィリピン)に到着する。ヴィサヤ島、リマサワ島、セブ島が従ったが、マクタン島の英雄ラプ・ラプは、植民地化の尖兵マゼランを倒しスペイン人をはねのけた。
リーダーを失ったマゼラン艦隊が次に寄港したのが、ブルネイである。1521年、ブルネイ湾にマゼラン艦隊が入港。ブルネイは港市都市であるため、マゼラン艦隊とも取引を行う。艦隊側では、ブルネイの情勢を調査し、湾内に2万5000戸の水上家屋があることを確認している。ほとんどがイスラム教徒であり、王族だけは陸上に居を構えていたことも記録に残している。
このころ、ブルネイ以外のボルネオ島諸都市がイスラム化したと考えられている。
1526年、今度はマラッカから東に進むポルトガル人がブルネイに至った。ポルトガル人の目的はモルッカ諸島にあったが、マラッカからジャワ、ボルネオ間を進むとイスラム教徒の船舶が多く、わざわざ北から回り込むことを考えていた。中国大陸マカオへの中継地点としても活用した。 ブルネイの運命を決めたのが、スペイン、ポルトガルとの関係である。ブルネイ王室はイスラム教徒だったマニラの首長と姻戚関係にあり、同盟も結んでいた。もちろん、貿易関係も重視していた。ところが、1564年、フェリーペ二世の命令により、スペインのフィリピン遠征隊が組織されてしまう。隊を率いていたのは、ヌエバ・エスパニャ副王領下でメキシコ市長を努めたスペイン生まれの貴族ミゲル・ロペス・デ・レガスピ(1505年-1572年)であった。
レガスピ隊は4隻の帆船と380名の部下を率いて太平洋を横断。途中1隻が離脱したものの、1565年2月にはヴィサヤ諸島へ到着した。まず、2カ月を要してフィリピン中央南部のセブ島に植民地を建設し、セブ植民地を拠点に周辺の島々を侵略していく。1567年メキシコから増派を受ける。
ブルネイ船はレガスピ隊と何度も海戦を交えた。ブルネイがポルトガルと同盟を結ぶことはなかったが、スペイン側の攻撃は分散された。1568年ポルトガルはセブ港を攻め、レガスピ隊はネグロス島をはさんで北西に位置するパナイ島に逃れた。1570年、レガスピ隊は北に向かって島伝いに占領を続ける。マニラが貿易都市として有力であることを発見すると、マニラの王をだまし、マニラを落とすと、パナイ島に戻った。マニラに植民都市を建設したのはようやく1571年だったが、ブルネイ側もフィリピン海域の拠点を次々に失い、貿易から閉め出されてしまう。さらに1578年、ブルネイのヴィサヤ諸島に対する権利をすべて譲ることを認めさせる。北ボルネオの一部も失った。1580年、ヨーロッパにおいてスペインのフェリペ二世がポルトガルを併合、もはやブルネイを助ける勢力は残っていなかった。
マニラの植民地確立に忙しいスペインはそれ以上ボルネオを追撃しなかった。1582年のスペインと倭寇との戦闘ののち、ブルネイは最後の反撃に出る。1587年、マニラ周辺の首長はマニラ港を訪れていた日本船と同盟を結び、スペインに戦いを挑む。ブルネイは背後から資金を援助した。しかし、スペイン勢力を後退させることはできなかった。
スペインは、1565年に始まったメキシコ(アカプルコ)・フィリピン(セブ・マニラ)・中国を結ぶガレオン貿易を軌道に乗せると、有望な資源のないブルネイに再び興味を示すことはなかった。メキシコが産する膨大な銀の約半数は中国に渡り、中国から絹織物を購入することで、利益を獲得できたからである。資源のないフィリピンは中継点としてのみ機能した。
一方、1640年にスペインから独立したポルトガルもモルッカ諸島の手前、スラウェシ島南西部の港湾都市マカッサル(現在のウジュン・バンダン)を占拠。モルッカ・マカッサル・マラッカ・ゴア…、という東から西を結ぶ最短経路を結ぶ貿易路を確立し、北に大きく逸れたブルネイに対する興味を失って行く。
ブルネイはヨーロッパ世界からの最初の侵略を逃れることができた反面、主要な貿易相手を失い、次第に衰えて行った。