2009年01月04日

箱館戦争

榎本武揚ら一部の旧幕府軍は、8月、旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出。奥羽越列藩同盟政府からの再三の援軍要請を無視し、同盟政府の敗色が強まった8月26日、ようやく仙台港に寄港した。榎本は仙台で、同盟軍および大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力、約2500人を収容して兵数を倍増させることに成功すると、10月12日、仙台領・石巻湾から蝦夷地(北海道)へと向かった。北海道の松前藩は、当初、奥羽越列藩同盟側に属していたが、のちに新政府側に寝返っていた。10月26日、榎本は松前藩の箱館五稜郭などの拠点を占領し、北海道を支配していた東北諸藩の敗戦後、12月5日、北海道に地域政権を打ち立てた(榎本政権(通称、蝦夷共和国))。榎本らは北方の防衛開拓を名目として旧幕臣政権による蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。旧幕府軍は松前、江差などを占領するも、要となる開陽丸を座礁沈没させて失い海軍兵力は低下、宮古湾海戦を挑んだものの敗れ、新政府軍の蝦夷地への上陸を許す。5月18日(同6月27日)、土方歳三は戦死。榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結した。

戦後処理
慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、田安亀之助に徳川宗家を相続させ、駿府70万石を下賜することを発表した。

同年(明治元年)12月7日、東北地方(北海道)と越後の諸藩に対する処分が発表された。列藩同盟の盟主である伊達慶邦、準盟主である上杉斉憲をはじめ東北諸藩の藩主は死一等を減じられ、一旦封土没収の上、削・転封された。主な諸藩の処分は次の通りである(カッコ内は旧領石高)。

処分をうけた藩
仙台藩 - 28万石に減封(62万石)。家老6名のうち2名が処刑、さらに2名が切腹させられた。仙台藩の財政は壊滅状態に陥り、仙台藩士の一部は新天地・北海道の開拓を決意し、北海道へと移住した。仙台藩士は現在の伊達市、当別町などを開拓した。
会津藩 - 陸奥斗南藩3万石に転封(23万石)。藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。家老1名が処刑された。この会津藩への過酷な処分は、西郷隆盛と並ぶもう一人の大総督府参謀であった長州藩士林通顕によってなされた。
盛岡藩 - 旧仙台領の白石13万石に転封(20万石)。家老1名が処刑された。
米沢藩 - 14万石に減封(18万石)。
庄内藩 - 12万石に減封(17万石)。新政府の重鎮である西郷隆盛によって寛大な処分がとられた。これは会津藩が長州藩の意向により苛酷な処分を受けた事とは対照的である。
山形藩 - 近江国朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。石高は5万石から変わらず。家臣1名が処刑された。
二本松藩 - 5万石に減封(10万石)
棚倉藩 - 6万石に減封(10万石)
長岡藩 - 2万8千石に減封(7万4千石)
請西藩 - 改易(1万石)、藩重臣は死罪。藩主林忠崇は投獄。のち赦免されるが士族扱いとなる。後年、旧藩士らの手弁当による叙勲運動により、養子が他の旧藩主より一段低い男爵に叙任された。戊辰戦争による除封改易はこの一家のみ。
一関藩 - 2万7000石に減封(3万石)
上山藩 - 2万7000石に減封(3万石)
福島藩 - 三河国重原藩2万8000石へ転封(3万石)
亀田藩 - 1万8000石に減封(2万石)
天童藩 - 1万8000石に減封(2万石)
泉藩 - 1万8000石へ減封(2万石)
湯長谷藩 - 1万4000石へ減封(1万5000石)
下手渡藩 - 旧領である筑後国三池へ転封、三池藩を立藩。石高は1万石から変わらず。
加増をうけた藩
新庄藩 - 8万3200石(6万8200石)
本庄藩 - 3万石へ加増(2万石)
松前藩 - 3万石へ加増(1万石)
矢島藩 - 1万5200石で立藩(8000石)
久保田藩 - 2万石の賞典録が与えられた(20万石)
弘前藩 - 1万石の賞典禄が与えられた(10万石)
守山藩 - 賞典禄1000両があたえられた。
所領安堵となった藩
八戸藩 - 藩主・南部信順が島津氏の血縁ということもあり、沙汰無しとなったと言われる。また、本家盛岡藩の久保田藩に対する戦闘では、遠野南部氏共々尊皇攘夷思想から参加していない。また、陰で久保田藩と通じる文書を交わしていることが明らかになっている。
村松藩 - 家老1名が処刑された。
村上藩 - 家老1名が処刑された。
磐城平藩 - 新政府に7万両を献納し、所領安堵となった。
相馬中村藩 - 新政府に1万両を献納し、所領安堵となった。
三春藩
新発田藩
三根山藩
黒川藩
明治2年(1869年)5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として、仙台藩首席家老但木成行、仙台藩江戸詰め家老坂英力、会津藩家老萱野権兵衛、盛岡藩家老楢山佐渡が、東京で極刑の刎首刑に処された。続いて、仙台藩家老玉虫左太夫、同じく仙台藩家老若生文十郎が、切腹させられた。しかし、但木成行、玉虫左太夫らの師である、仙台藩強硬派の精神的柱石、思想家、大槻盤渓は、死を免れた。

会津藩と庄内藩の処分については、新政府内においても「厳罰論」と「寛典論」に分かれたが対照的な処分となった。 会津藩に対する処分は厳しく「旧領の猪苗代か新天地の斗南どちらか3万石に転封」というもので、会津藩内での議論の末、斗南を選択している。斗南は風雪が厳しく実質的には8000石程度で、移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。

庄内藩に対する処分は、西郷隆盛らによって寛大に行われた。西郷隆盛の庄内藩に対する対応は巧妙であり、これに感激した庄内の人々は、西郷に対する尊敬の念を深めた。前庄内藩主酒井忠篤らは西郷の遺訓『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している。

奥羽越列藩同盟政府から新政府に寝返った久保田藩・弘前藩・三春藩は功を労われ、明治2年(1869年)には一応の賞典禄が与えられた。しかし、いずれも新政府側から他の諸藩と同格とは見なされず恩恵を得られなかった。この仕置きを不満とした者の数は非常に多く、後に旧久保田藩領では反政府運動が、旧三春藩領では自由民権運動が活発化した。

箱館戦争が終結すると、首謀者の榎本武揚・大鳥圭介・松平太郎らは東京辰の口に投獄されたが、黒田清隆らによる助命運動により、明治5年(1872年)1月に赦免された。その後、彼らの多くは乞われて新政府に出仕し、新政府の要職に就いた。

大正6年(1917年)9月8日、盛岡において戊辰戦争殉難者50年祭が開かれた。事実上の祭主としては、盛岡藩家老の家に生まれた政友会総裁原敬が列席し、「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、「賊軍」・「朝敵」の汚名を雪いでいる。

「戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が新政府に勝っていれば仙台(周辺)が日本の首都になった」、という「仙台首都説」がある。 これに直接的な関連は無いが、1990年代前半に地方分権法案が審議され日本の遷都が検討された際に、仙台市も首都候補都市として挙げられていた。

遺恨
戊辰戦争では戦争の様々な事柄や理由において、その原因を遺恨と結びつけて説明される事がある。 京都守護職であった会津藩の京都における勤王・倒幕浪士の捕殺や、庄内藩による薩摩藩邸の焼き討ち[2]。禁門の変による長州藩への「朝敵」指定や長州征討。会津戦争での新政府軍による暴行・略奪などが各藩の「恨み」の理由として挙げられる。 また実際に、長州藩では官軍に立場が転じると旧幕府側の人間を敵意をこめて「朝敵」と呼称した山縣有朋や世良修蔵[3]のような人物が見られ、鹿児島で起きた西南戦争において旧幕府側出身の抜刀隊員達は、賊軍の汚名を晴らすべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫んで斬り込んでいった。 会津藩のあった福島県西部(特に会津若松周辺)では、今なお山口県(長州藩)の人間への強い嫌悪感やわだかまりがある。

シントニア タコス オイル マヤ吉 ケルン ミーハー ボタン たこいと デュアル アルル ライン アクサ ビー玉 ロコモコ ライフ テナー クチル トッププ ナズナ ロベニア シタニア キング ブルー レンド ハファダ シリア マリンホス タイトス リテール シラー カノープス きねづか ブダペ スノーグ チョウゲ フルタイ モミジ デブリ ブラッシ 深海魚 シルバー ビーテ トライ サイキック ブレッツ プルーフ すいか くもり ダッジ ミーア


2008年12月30日

バビアンと同じ過程

ガジマロ(登場作品:3)
バビアンと同じ過程で作られた日本人形。性質はバビアンと同じで手持ちの斧で攻撃してくる。
幻魔・森蘭丸(登場作品:3)
左馬介に倒された森蘭丸が時のねじれに飲まれて未来に行き、左馬介への復讐のためにギルデンスタンの手で生きたまま幻魔となった。
脳に手を加えられていないので記憶は残っているが、幻魔の血を受けた影響で冷静さは失われ話し方も狂気に満ちている。また、人間だった時に比べて身体能力が主にスピード面で大幅に向上している。幻魔としての力が強力なため幻魔の魂を吸収し、自身の体力を回復ことができる。
ガートルード(登場作品:3)
元は鬼の遺跡の番人だったがギルデンスタンに捕らえられ、脳を中心に改造された結果鬼の力を持つ者に歯向かうようになった。
二つの頭から雷と氷を利用した攻撃を繰り出してくる。
深い傷を負っても肉体を岩石化することで、時間をかけて修復することが可能。
迷い死屍(登場作品:新)
妖星の邪気で蘇った屍。普段は地中に身を隠しているが、生者の気配を察知すると地中から湧き出し、相手に噛み付くなどして攻撃する。日本人と西洋人の2種類が存在し、日本人は若干生命力が高い。
迷い死屍(大柄)(登場作品:新)
個体差という言葉が当てはまらないほど巨大な迷い死屍。
通常の迷い死屍を召還する特殊能力を持ち、チョップやキックで攻撃してくる。
ロッス(登場作品:新)
決められた軌道を移動する浮遊鎧体。知能は無く、外敵を察知するセンサーの役割で、赤と青の2種類のタイプが存在する。
幻魔樹(登場作品:新)
秀吉が醍醐の花見を行う為に日本各地から集めている「桜」。
「樹」という名こそ付いてはいるが、その正体は大勢の妊婦たちを捻り込んで作った塊である。
幻魔蟲を生み出すと同時に、妊婦たちの怨念を幻魔母樹に送り活性化させる能力を持つ。
幻魔蟲(登場作品:新)
幻魔樹から生み出される、桜の花びらに似た羽を持つ蟲。豊臣家臣達からは「豊国蟲」の別名で呼ばれる。
人間に取り憑き、その人間の感覚(恐怖心・空腹感など)を取り除いて超人的な力を持つ戦士に変える能力を持つが、最終的にその人間は幻魔になってしまう。
なお、お初の場合秀吉や宗矩に従っている間は理性を保つことが出来、逆に逆らってから程なくして幻魔化が始まっているので、彼女が幻魔化するか否かは外部からコントロールすることが可能な模様。
大甲冑秀吉(登場作品:新)
秀吉の最後の切り札。機械仕掛けの甲冑には右手に装備された大太刀の他に、機関銃などが搭載されている。
巨体ゆえに通常の攻撃手段ではダメージを与えることは不可能である。
幻魔母樹(登場作品:新)
創造神を誕生させるべく、幻魔樹を触媒に幻魔の妖力の源である人々の魂を溜め込んだ存在。
自由に動くことはできないが、レーザーや触手攻撃など強力な防御機能を備えている。

ジョブコー ダーポポ プライ オール ハンドグ フェア はずたか タフガ シミュレ 冬の花 ポテト トゥー ハンカ ハシェマ やまふじ インレット ゆずの里 カガシ マンシェ ナサラ ヌクレ 検索モミ カラカス スピー オリジナ 水菜 ビジョン ズーム マウンテ ドレス トカマク ムギセ ベニバ グラソース キング コード オパール オーセン クール ランボ たてじょう ブラゾーン おおみ リンス バロキ スノー ドウェー プレス プロペ いぬまき

2008年12月15日

制圧までのローマ

イタリア半島の制圧までのローマは、戦時に同盟国に兵力と物資の提供を求め、敗戦国に賠償を課したり、土地を奪って植民したりしたが、組織だった徴税制度は設けなかった。しかし、第一次ポエニ戦争によってシチリアとサルディニアを得ると、属州を設けて納税義務を課し、総督を派遣した。属州から運ばれる穀物は、ローマ市の急激な人口増加を支えた。制度のうえでは、属州統治においてもローマは都市の自治を尊重した。しかしその一方、派遣された総督は、ローマの支配を確保する以外の義務や束縛を持たなかったため、収奪のみを仕事とした。

搾取とはまた別に、従属した諸国と都市の有力者は、ローマの政治家に多額の付け届けを欠かさぬことを重要な政策とした。結果として、少数の有力政治家の収入と財産が、国家財政に勝る重要性を持ち、ローマの公共事業は有力政治家の私費に依存することになった。ローマ市民は、こうした巨富の流出にあずかる代わりに、共和政ローマの政治家に欠かせない政治支持を与える形で、有力者の庇護下に入った。恩顧・庇護の社会は、帝政期まで長くローマの特質になった。

対極的に没落の運命をたどったのは、ローマ軍の中核をなしていた自由農民であった。連年の出征によって農地から引き離され、また属州より安価な穀物が流入したため次第に没落していく。この状況を打開するために、グラックス兄弟が、平民の支持を得て、土地分与の改革を実施しようとした。しかし紀元前133年、兄ティベリウスが暗殺された。紀元前123年、弟ガイウスは反逆罪の咎を受けローマを逃げ出すが逃げ切れず自決。改革は失敗した。元老院はガイウス・グラックスの仲間をも処刑。これ以後、共和政ローマは、暗殺と殺戮によって歴史が紡がれていく。

バゲット クス ポイント ヌガー ソリッド 一石二鳥 ミックス ランウエー アヨーチン ブルペン ステーク ドンファン フィル 検索クワ ギガス おじまじ タンポン カレンシー ぼうふう トリグ シャーマン シシャパ キトサン タウリン フィー リーキ シシカバブ バーガー モダンアート セントラ ヒンドゥー フレッ サイゴン 王様検索 フルネュ ナロー ひみつり オーバ カーフェリ サーベイ レジェンド サー油 マイタ かぶらや デミタ ラジエ スター ダンサー テンキー イニング


2008年12月11日

山県の影響下にある地方長官会議

1890年(明治23年)10月30日に発布された教育勅語は、山縣有朋内閣のもとで起草された。直接の契機は、山県の影響下にある地方長官会議が同年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる。明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、榎本武揚文部大臣が道徳教育の基本方針を立てるよう命じられた。ところが榎本はこれを推進せず、更迭された。後任の文部大臣に山県が腹心の芳川顕正を推薦したのに対して、明治天皇は難色を示したが、山県が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得した。文部大臣に就任した芳川は、女子高等師範学校学長の中村正直に原案を起草させた。

この中村原案を山県が内閣法制局長官井上毅に見せて意見を求めたところ、井上は中村案の宗教色を理由に猛反対。山県は、政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼した。井上は、中村案を全く破棄し、「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提として、宗教色を排することを企図して原案を作成した。井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対したが、山県の教育勅語制定の意志が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。この井上原案の段階で後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。

一方、天皇側近の儒学者元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、この時も儒教に基づく独自の案を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調した。井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した。

発布は1890年(明治23年)10月30日。国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉という意味合いから、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されていない。井上毅は明治天皇が直接下賜する形式を主張したが容れられず、文部大臣を介して下賜する形がとられた。

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山県の影響下にある地方長官会議

1890年(明治23年)10月30日に発布された教育勅語は、山縣有朋内閣のもとで起草された。直接の契機は、山県の影響下にある地方長官会議が同年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる。明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、榎本武揚文部大臣が道徳教育の基本方針を立てるよう命じられた。ところが榎本はこれを推進せず、更迭された。後任の文部大臣に山県が腹心の芳川顕正を推薦したのに対して、明治天皇は難色を示したが、山県が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得した。文部大臣に就任した芳川は、女子高等師範学校学長の中村正直に原案を起草させた。

この中村原案を山県が内閣法制局長官井上毅に見せて意見を求めたところ、井上は中村案の宗教色を理由に猛反対。山県は、政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼した。井上は、中村案を全く破棄し、「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提として、宗教色を排することを企図して原案を作成した。井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対したが、山県の教育勅語制定の意志が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。この井上原案の段階で後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。

一方、天皇側近の儒学者元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、この時も儒教に基づく独自の案を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調した。井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した。

発布は1890年(明治23年)10月30日。国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉という意味合いから、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されていない。井上毅は明治天皇が直接下賜する形式を主張したが容れられず、文部大臣を介して下賜する形がとられた。

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2008年12月04日

金属の供給が制限

第二次世界大戦時に金属の供給が制限され、その時に木材やペーパーハニカムにフェノール樹脂を含浸させた材料が代用資材として使用された。その素材を採用されたモスキート戦闘機は金属製の機体に比べて性能は遜色なかった。また、フェノール樹脂のおかげで腐る心配もなく、軽量で高強度を維持することができた。また、副次的効果としてレーダー反射断面積が小さく、敵のレーダーに捕捉されにくいという効果もあった。(後にはこちらの機能が重視されるようになる。)戦後、その優れた特性を活かした用途として徐々に航空機やプレジャーボート、掃海艇、ラケット、つりざお、風力発電のブレード等に使用されるようになる。

複合材料の例
合板 - 複数の種類の木材
繊維強化プラスチック - 繊維 + プラスチック(母材)
カーボン・カーボン(C/C) - 炭素繊維 + 炭素(母材)
金属基複合材料 (MMC) - 任意(繊維など) + 金属(母材)
コンクリート - 砂利 + セメント(母材)
鉄筋コンクリート - 鋼 + コンクリート(母材) (母材のコンクリートもまた複合材料である)
骨 (生体材料はほとんどが複合材料である)
など

複合材料として用いられる素材の例
軽金属(アルミニウム、マグネシウム、ベリリウム、チタン等)
合金(ステンレス鋼等)
繊維(天然繊維、ガラス繊維、化学繊維、炭素繊維、ケブラー等)
セラミックス

合成樹脂

銀星 坂道 あさ あじ 空に あした 空想 幸せ アタ 空飛 あたし 偶然 あたた あたたか 君に あたたか 君の アダ 黒薔 君の ダイ あたら 君を あたら あつい 決断 あとの 月光 流星 あなた 月光 あなた 月光 あなた あなた 見え あの雲 古い あの雲 故郷 あの夏 鼓動 あの夏 あの海 好奇 あの空 街路樹 幸せな あの頃 幸せ

2008年11月29日

東京の南約1,080キロ

硫黄島は、東京の南約1,080キロ、グアムの北1,130キロに位置し、小笠原諸島に属する火山島である。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの名称がつけられた。長径は北東から南西方向に8キロ未満、幅は北部ではおよそ4キロ、南部ではわずか800メートルである。面積は21平方キロ程度、最高点は島の南部にある標高169メートルの摺鉢山である。土壌は火山灰のため保水性はなく、水は塩辛い井戸水か雨水に頼るしかなかった。戦前は硫黄の採掘やサトウキビ栽培などを営む住民が約1,000人居住していた。

日本軍は1941年の開戦時、海軍根拠地隊約1,200名、陸軍兵力3,700ないし3,800名を父島に配備し、硫黄島をこの部隊の管轄下に置いていた。開戦後、南方戦線と日本本土とを結ぶ航空経路の中継地点として硫黄島の重要性が認識され、海軍が摺鉢山の約2キロ北東に千鳥飛行場を建設し、航空兵1,500名および航空機20機を配備した。

あかね あの頃 あの坂 あの時 幸せ あの日 口紅 広い あまい 紅と あま 合鍵 あや アリと 砂浜 あり 天使 最後 アルバ 最高 アル 最終 あわ あんた 桜の いつ 雪に 桜の いつ 桜咲 喧嘩 いな 散歩 いろ インス 珊瑚 ウェ 思い うぐ 新世界 時の うさ うち エスコ 時間 エト 自転 オー


2008年11月24日

有史以来、政治のあるところにプロパガンダ

有史以来、政治のあるところにプロパガンダは存在した。 ローマ帝国では皇帝の名を記した多くの建造物が造られ、皇帝の権威を市民に見せつけた。フランス革命時にはマリー・アントワネットが「パンがなければブリウォッシュ(お菓子)を食べればいいじゃない」と語ったとしたものや、首飾り事件に関するパンフレットがばらまかれ、反王家の気運が高まった。

プロパガンダの体系的な分析は、アテネで紀元前6世紀頃、修辞学の研究として開始されたと言われる。自分の論法の説得力を増し、反対者への逆宣伝を計画し、デマゴーグを看破する技術として、修辞学は古代ギリシャ・古代ローマにおいて大いに広まった。修辞学において代表的な人物はアリストテレス、プラトン、キケロらがあげられる。古代民主政治では、これらの技術は必要不可欠であったが、中世になるとこれらの技術は廃れて行った。

テレビやインターネットに代表される情報社会化は、プロパガンダを一層容易で、効果的なものとした。わずかな費用で多数の人々に自らの主張を伝えられるからである。現代ではあらゆる勢力のプロパガンダに触れずに生活することは困難なものとなった。
国家による大規模なプロパガンダの宣伝手法は、ロシア革命直後のソ連[1]で急速に発達した。 レーニンは論文[2]でプロパガンダは「教育を受けた人に教義を吹き込むために歴史と科学の論法を筋道だてて使うこと」と、扇動を「教育を受けていない人の不平不満を利用するための宣伝するもの」と定義した。レーニンは宣伝と扇動を政治闘争に不可欠なものとし、「宣伝扇動」(agitporp)という名でそれを表した。このレーニンの理論に基づき、ソビエト共産党をはじめとする共産陣営はかつて無い規模の宣伝活動を行った。そのためソ連は「世界初の宣伝国家」とも呼ばれる。

ドイツの国家社会主義ドイツ労働者党は、政権を握る前から宣伝を重視し、ヨーゼフ・ゲッベルスが創刊した「デア・アングリフ」紙や、フェルキッシャー・ベオバハター紙による激しい言論活動を行った。また膨大な量のビラやポスターを貼る手法や、突撃隊の行進などはナチス党が上り調子の政党であると国民に強く印象づけた[3]。ナチス党が政権を握ると、ヒトラーは特にプロパガンダを重視し、ゲッベルスを大臣とする国民啓蒙・宣伝省を設置した。宣伝省は絵画・彫刻・映画・歌・オリンピックといったあらゆるものをプロパガンダに用い、ナチス党による独裁体制を維持し続けることに貢献した。(ただし、ナチス・ドイツの宣伝効果は限定的であったという指摘をする研究もある。)[4]

第二次世界大戦中は国家の総動員態勢を維持するために、日本やドイツ、イタリアなどの枢軸国、イギリスやアメリカ、ソ連などの連合国を問わず、戦争参加国でプロパガンダは特に重視された。終戦後は東西両陣営の冷戦が始まり、両陣営はプロパガンダを通して冷たい戦争を戦った。特に宇宙開発競争は、陣営の優秀さを喧伝する代表的なものである。

長い 七つ 誕生 オシ 社会 おし おばあ 秋風 おま 君恋 週に おも 出逢 おも 春の オリー オレン 春を お月 春一 お助 お天 暑い カーニ ガール 小さ カウ 君が かえ 小悪 かげ 少年 カシス かすみ 笑顔 かぜ 鐘を カモ 上級 ガラ ガラス カルメ 心の ガン 心の 受話


2008年11月19日

クウェートの少女が米国議会

この戦争についていくつかの事例から「アメリカによって仕組まれた戦争でイラクはのせられた」とする考え方がある。そのような説の根拠はおおよそ以下のようなことだが、イラクがクウェートに侵攻したのは事実であり、非難されるのはイラクの方であるという考えが一般的である。

イラクは、イラン・イラク戦争でイスラム革命からアラブ君主国家を守ったと自負していたが、クウェートが100億ドルとも言われる戦時債務の即時返済を要求。それをイラクが断るとイラク・クウェートの国境地帯にあるルメイラ油田から大量採掘を開始。債務帳消しを要求するイラクにも問題はある。
米国政府は戦前・戦中にかけて、ことさらイラク軍の脅威を誇張し、世論を武力制裁やむなしと言う流れに変えた。しかし地上戦になると、実際のイラク軍は装備も貧弱で士気もまるで無く、多国籍軍の猛攻から逃げ回るばかりだった。ただし、この種の話はよくあることで、イラクだけが特別ではなく、また、将兵の士気の低さを指摘する意見もあった。
1990年7月25日にイラクがクウェートの併合を示唆した際、アメリカの駐イラク大使エイプリル・グラスピーは「国境問題に介入するつもりはない」と発言。しかしこれはアメリカが他国間の領土問題に対する姿勢としては普通のものである。例えば竹島問題ではアメリカはノーコメントである。[1]。
1990年7月31日のイラク・クウェートによるジッダ会談において、クウェート側がフセイン大統領が私生児であることを揶揄するなど侮辱的な態度を取った。ただし、クウェート侵攻の準備はこの日より以前に開始されているし、この会談の席でイラクは、領土割譲を要求してクウェート側を怒らせている。
1990年10月、クウェートの少女が米国議会において、イラク兵が病院で赤ん坊を床にたたきつけたなどと涙ながらに惨状を証言、戦争に疑問を抱いていた米国世論は一挙に反イラク色に染まったが、後に少女は駐米クウェート大使の娘で、現場にさえおらず、証言は虚偽であった事が発覚した。クウェートが占領された後の話で、戦争勃発原因とは関係ないが、アメリカの世論を反イラクに傾けることになった。
また、湾岸危機から戦争にかけて石油価格は値上がりし、欧米の石油メジャーは利益を得た。また、ソ連は和平工作をすることによって存在感を表したが、それは戦争直前のことであり、ソ連自身も産油国であることから、実際には石油価格値上がりを期待していたと思われる。

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2008年11月15日

連隊長命令

連隊長命令で不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。受験科目は初級戦術学、築城学、兵器学、地形学、交通学、軍制学、語学、数学、歴史などであり、各科目三時間または三時間半で解答するというものであった。部隊長として勤務することを望んでいた石原は受験に対してもやる気がなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく淡々と普段の部隊勤務をこなし、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。しかし合格し、1915年に入学することになる。ここでは戦術学、戦略、軍事史などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を思想や宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。そして1918年に陸軍大学校を次席で卒業した(30期)。卒業論文は北越戦争を作戦的に研究した論文(「長岡藩士・河井継之助」)であった。

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